承久の乱 - Wikipedia: "承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱である。承久の変、承久合戦ともいう。しかし朝廷は、結局、鎌倉武士団の返り討ちをくってしまうのである。
武家政権である鎌倉幕府の成立後、京都の公家政権(治天の君)との二頭政治が続いていたが、この乱の結果、幕府が優勢となり、朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承などに影響力を持つようになる。朝廷と幕府の緊張はしだいに高まり、後鳥羽上皇は討幕の意志を固める。同年5月14日、後鳥羽上皇は「流鏑馬揃え」を口実に諸国の兵を集め、北面・西面の武士や近国の武士、大番役の在京の武士1700余騎が集まった。幕府の出先機関である京都守護の大江親広(大江広元の子)は上皇に強要され、やむなく京方に加わる。同時に親幕派の大納言西園寺公経は幽閉された。後鳥羽上皇は諸国の御家人、守護、地頭らに義時追討の院宣を発する。"
わがニッポンでは、一旦「朝敵」と名指しされると「朝敵」側が負けるというのが「キマリゴト」。朝敵とされながら家臣側が堂々と朝廷を撃ち破ったというのはこの事件だけではないか。この時の北条政子の名演説が残っている:
吾妻鏡承久3年5月:
"二品禅尼有勢の武士を庭中に召あつめてかたらひていはく、各々心を一にして聞べし。 是は最後の詞也。故大将家、伊豫入道・八幡太郎の跡をつぎて東夷をはぐくむに、田園身をやすくし官位心にまかする事、重恩すでに須彌よりも高し。報謝の恩大海よりもふかゝるべし。朝威をかたじけなくする事は、将軍四代の今に露塵あやまる事なきを、不忠の讒臣等天のせめをはからず、非義の武芸にほこりて追討の宣旨を申くだせ り。(略)恩をしり名をおしまむ人、秀康・胤義をめしとりて、家を失はず名をたてん事をおもはずやと。是をきくともがらなみだにむせびて返事を申にくはしからず。ただかるき命をおもき恩にかへん事ふた心なし。"
古今東西、国家権力を乱用して反対勢力を潰そうとする体制側の試みは、うまく行くときもあれば、逆効果となるときもあるのである。
今の民主党も、政子の演説に学べ。
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